浜松まつりの歴史②
浜松百撰 1962(昭和37年)より
「五月の空を彩るもの」 萩原 井泉水
(昭和八年 四条書房版「旅の話句の話」から引用)
浜松で、凧揚というものを見た。練兵場の空には幾十という凧があがって、お互に戦機の熟するのを待っている。一つが一つに相接したかと思うとスラリと切る。ここのは綱の摩擦だけで切るのだ。戦を挑まれたと見れば手早く応戦する。この掛引は熟練を要するという。
凧の大きさは畳三畳敷くらいのもので、綱はロクロで出したり、巻いたりする。十人位の若い衆が揃いの半纏を着て、これにかかり一人のコーチの命に依って、ロクロを曳いて馳けあるく、私達は空を仰いで見物していながらも、不意にワッショ、ワッショと襲いかかるその戦隊に追いまくられねばならない。 凧には、その絵や宇で、何町の誰の凧だと解るのだ。
「いま、あの大の字が天狗にしかけているのです」
など、私を案内してくれた土地の人は説明する。「天狗はなかなか強いので、ここ数年負けたことはないでしよう」とも云う。町の凧が戦う時は、その町の人が手に汗をにぎっている。纒を振り立てて景気をつけている部隊もある。だが、この日は風が少いために壮絶な戦は見られなかった。
「私達が若い時は、もっとがむしゃらに仕掛けあったものだがなァ……」
「その頃は、凧と凧との戦ですまずに、若い者同志のなぐり合いになったものでした。何しろ凧のために留置場に入れられるのは、むしろ名誉くらいに思っていたのですから」
「ともかく、浜松の名物というものの、気狂いじみたものですよ」
「一度も見ない馬鹿、二度見るのも馬鹿という言葉もあります」
関連記事