浜松まつりの歴史④ 前編

NAVA@八まん連

2011年12月09日 01:13



浜松百撰 1959(昭和34年)より

凧揚げ・お行儀の悪かった頃
       渥美静一(浜松市史編集室主任)前編


 ♪虹でいろどる五月の空に
   花と競うか         
  花と競うか松の浜松
   凧まつり

 遠州路の紺碧の空に、矢車がからからと鳴り、大きな鯉のぼりが爽かな蕉風をうけて泳ぐ五月、年中行事の王座、勇ましい凧合戦の幕が切って落された。

 この浜松の凧揚げの起りを「浜松城記」にみると、今から四百年前の永禄年間、飯尾豊前守の長子義広公の誕生を祝い、大凧に「御名」を記し揚げ奉るとあり、更に天正年間には城中の奨励により、浜松の町内に凧揚げが行われたと記されているが長い間続いた戦国の暗い世相、人心の疲へいと混乱した中でこのドライな遊技は格好な行事であったらしい。が、城内で初めは奨励しただけあって年々盛大を極めたのはよかったがその期日以外でも好き勝手に掲げられるようになり、文政十一年、町小頭から庄屋にあてた触書によると「五月十一日の夜、凧を揚げた者がある。浜松の凧揚げは五月節句限りと定められ、極めて行儀が良かったが、近頃無制限に凧を揚げる者があるため昔からの行儀が乱れてきた。今后は五月節句後は凧を揚げないようによく町内の者へ申付られたい」というものである。

 この文書からみると、夜凧を掲げたものがあるという事例を引用して注意を促しているがこの期間外だといって行儀が乱れてきたという表現はおかしいが、凧と節句を結びつけた祝いごととして、とりとめもなく凧があげられ、それが領民自身の生活にまで影響するのを警戒しての方策とみれば考えられないこともない。

 ところで最近まで"凧に喧嘩はつきもの"といわれているだけあって、自慢にならないが相当長い伝統?がある。事件は詳細に記録されていないが、町役人が登場した喧嘩として文書に残っているのは元治元年伝馬町と大工町の若衆とが争っているとき通りかかった利町の若衆が立入って三ツ巴の大喧嘩になった、そこへ町役人が出馬、お取調べ?があって結局大工町の庄屋から町役人宛に「今后はかかる事態のなきよう十分なる注意を誓います、何卒ご内々の程を」……と詫び状を入れて結着したとあるが、原因ケガ人等については記されていない。

 つい数年前までこうした町同士の争い、寄附をめぐるもん着があった。しかしこうした争いも「凧の喧嘩で根に持たぬ」という言葉が残っているように、凧合戦が済んでしまえば、一切の行きがかりをきれいに捨ててしまうところに浜松ッ子の気ップが現われてはいないだろうか。


 ところで凧揚げまつりがムヤミとハデになってしまうところから、随分取締る役人の側では苦労したようで、一世のケチ宰相といわれた水野忠邦は、自分の領地浜松の凧揚げに対して厳しい倹約令を出して取締っている。また一般町内同志でも催しがハデになると自然お行儀が悪くなるので初凧といって長男が生れて初めて節句を迎えた家でする祝いの寄附の額だとか、凧の寸法、配色、図柄、凧の枚数、馳走、配り物などに自粛を申し合せるなど領主、領民を問わず祭に度々ブレーキがかけられてきた。

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