浜松まつりの歴史④ 後編
浜松百撰 1959(昭和34年)より
凧揚げ・お行儀の悪かった頃
渥美静一(浜松市史編集室主任)後編
凧の大きさは多くは三帖から八帖で、それに用いる「阿多古手漉祗」として名高い今は天竜市に合併された北遠阿多古産の八分帖紙が使われ凧の値段は大体一帖約千円になるが、各町五枚から十枚を用意して祭りに参加する。
だから浜松の凧揚げは各町対抗の団体競技(風糸の切り合い)で、他の有名な長崎の紙鳶会、相模の厚木、伊予宇和島の凧揚げなどとは異った特長がある。
この競技は凧に結ぶ糸目付によって勝負がかなり左右されるところから、どこの町でも競って腕の良い経験の豊富な人をこの役目にあてている。時には名人肌の人も出たが、中でも「型安」という彫刻師は、自筆の絵入り「絲目付秘法」一巻を著し、糸竹とともに切れた糸をつなぐことにもたけ革袋に七ツ道具をしのばせていたという。
さていまは三方原台地、和地山町の元練兵場跡に会場狭しと繰り展げられるが、こうして一箇所に集まって各町が技を競い合うようになったのは大正初年頃で、各町の統監部を一割して「連合凧揚会統監部」が作られ、凧合戦のルールが決められた。その頃は伊場町内の鉄道用地広場が使われた。
遠州の空ッ風にのって六十ケ町の大凧が舞い、凧糸を相手の糸にのせかけたり、下からすくい上げるようにしたりして摩擦で相手の糸を切る訳だが、これが大きく自然の風の力を利用して行われるので受身になった凧糸は焼き切れてしまう。女性も今のヘアースタイルでは心配もあるまいが昔私が子供の頃(大正時代)は女性の髪はまだ髷(まげ)が多く、この髷を凧糸で切り落されたという話をよく聞いたものである。
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