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2011年07月08日

凧まつりの思い出

 ふる里の先輩への質問:凧まつりの思い出についておきかせください

 「私の少年時代には凧揚げというのはありましたが、凧祭りというものはありませんでした。
まして、浜松祭りというものなどまったくありませんでした。

私は明治43年以降のことはよく知りませんが、何でも浜松に練兵場ができてから、そこへ各町の凧が集まってきて、それがだんだん盛んになりお祭り気分が盛り上がってきて、凧祭りというものになったと聞いています。


しかし、凧揚げは私には忘れ得ないものがあります。私は今でも顎に傷がありますが、この傷は、母が私を背負って家を出たところに、いきおいよく凧を運んでくる子若連の一行に出会い、それを避けようとしたがせまい道で避けきれず、凧の角の竹骨で傷つけたあとだとの事です。母はそれで離縁を貰って実家へ帰る決心をしたほどであったそうです。

それにしても、明治二十六、七年ごろすでに凧揚げは相当盛んであったことがわかります。


私の小学校時代は、四月の末から揚げました。
五月に入ると、教室で勉強していても学校を休んだ子が二、三人で窓のところへきて、おいでおいでをする。先生に顔を合わせないように首をすくめては、また出す。教室の子はたまらなくなる。そこであとに授業の時間が残っていても、鐘がなると飛び出して行ってしまうという有様でした。


凧揚げ場は寺島附近でした。広場があるわけでなく、レンゲ草の咲き詰めた水のない田が陣地になりましたが、しかし戦況によって陣地は移動しました。畑でテギをかけると、そこの作物は全く荒らされてしまいました。それで下肥をまいてそれを防いだ畑が相当あったものです。

私ども子供たちは、先まわりをさせられました。これは自分の町の凧が切れて来るのを待って、それを拾って帰る役であったからです。面白くないことはなはだしいが、それでもそれで満足していたものです。そして、飯田橋羽あたりまで行ったことがあります。

私の住んでいたのは元魚町でしたがこの町の凧は「分銅にもの字」と「角つなぎ」でした。伝馬町は紺地に白く「て」の字を、後道は「天狗の面」、連尺町は「藤」を斜めに引いたもの、その他は忘れてしまいました。それにしても天狗はとても強く、何でも名人がいるという話でした」(浜松百撰 昭和36年 歴史学者 高柳光寿)



大安寺附近や寺島で凧を揚げた事はwikiなどにも書いてありますが、このように明治中期の実体験に触れる事は私は今までありませんでした。言葉の問題にしてもなんにしてもいろいろと変わってしまった凧ですが、こういうものを読んで原風景を確認し、次の世代に伝えていくことも意義ある事だと思います




Posted by NAVA@八まん連 at 22:57│Comments(0)
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