2014年05月02日
これが浜松の凧揚げだ
『周りがどんなに変わろうと俺らは俺らの凧やるのみ』という衆らと、今年もまた会えますね。
みんなこの写真と同じように、いい顔して暴れまくるんじゃないでしょうか。それでは、現場でお会いしましょう
浜松百撰 1962(昭和37年)より
■特集3/これが浜松の凧揚げだ (テクスト/山下浩二)
「神田まつりが凄いの、山王さまがどうのったって、そりゃ浜松の凧にはかなわんさ、とにかく五十余ケ町いっせいに繰り出して、街を埋めちゃうんだからな」と、生っ粋の浜松っ子なら異句同音だ。
なるほど凄い。とくに凧合戦の戦場は、まさに浜松っ子のエネルギーの"るつぽ"である。その"燃える瞬間"は、あらゆる理クツをこえて感動的だ。かりにその時、「時間よ停れ!」と私がいったとする。時間が停ったとする。それがこのグラフだ。ああ、やはり人間は素晴しい!ここにある写真がそれを証明している。

「それっ、今だ!」 「テギ、テギ、テギ」と、叫びあい、力をかし合うこの充実した時間は、遠い私たちの祖先が、ケモノを追いながら、ある日偶然にも行った'はじめての共同作業'を思い出させる。まず、あなたはこの一つ一つの顔を、穴のあくほど見つめることから始めてほしい。汗にまみれた、限りなく美しいこの顔顔顔を。



からみ合って喘ぐ大空の凧、それを見上げる老人は、かってテギをかざし、声をからして叫んだだろうか、「それ今だ!」と。
しかし、それよりも、この凧を、燃える生命の時間を、日ごとに、なしくずしにしようとしているものの正体は何か。それは"現代"という名のバケモノなのか。私はもうこ一度この顔顔をみつめてみよう。
Posted by NAVA@八まん連 at 17:08│Comments(0)
│凧
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